記憶は時に研磨され、思い出となる。
先日のこと。
日テレ系「ドラマ・コンプレックス」という番組を観ていた。
その日は、犬との繋がりを描いたドラマをオムニバス方式で集めたという趣旨のものだった。
その中の一本に、
「ねえ、まりも」
という題名のドラマがあった。
始まる前のアナウンスで、
「涙ナシには観られない!」
などと言っちゃっている。
殊更そういうからには、きっと真正面から泣かしにくるのだろう。
そっちがそのつもりならこっちだってオメオメと泣いてたまるかという強硬な態度にも出ざるを得なくなる。
かつて、
「極東。鉄の涙腺」
と呼ばれたこの乾き目の真髄を如何なく発揮すべしと、
身体をややハスに構え、
飽くまでも横目で、
意識の余り分だけをかろうじて向けてやらなくもないぞよ的態度をもって画面を眺め始めた。
内容は、
なんのことはない、
少女がまだ幼い頃、もらわれてきた子犬。
同じ時の中で共に成長してゆくのだが、
いつしか子犬は少女を追い抜くように成長し、老いてゆく。
そんな、犬を飼っていれば当然のように流れる出来事を、、
少女は不思議そうに問いかけ、
子犬はもどかしく応える。
それらを囲むように、
切ない音楽と、台詞の無い情景が淡々と彩ってゆく・・・。

ふぐおあぁぁぁぁぁ~~~~!!!
あ~~うあうあう!!!
だげでゅで(泣けるぜ)~…!
ぼう…、だべだっでどんだ、
ぜづだづぎゆっで!!!
(もう、だめだってそんな、切な過ぎるって。)
昔飼ってた犬たちのこと思い出しちゃったよ!
うほおおおお~~~ん!!!!
かくして、テレビの前にはあっけなく陥落した鉄の涙腺と、
涙と鼻水をたっぷり含んだティッシュが、
屍山血河を築いたのだった。
ウチがまだ街に住んでいた頃、
犬を飼っていました。
それも5匹。
犬ぞりのような散歩、
糞尿の世話、
犬同士のケンカの仲裁、
犬の声による周辺住民の反感…
本当に大変で、負担だらけだった。
「なんでこんなことしなきゃならんのだ。」
と思ったことも数知れず。
十数年、たっぷりと関わりきって、
最後の一匹を見送った時には、
悲しさや寂しさよりも、
「やっと終わった…。」
という、達成感と、安堵感のほうがはるかに大きかった。
そんな「記憶」。

しかし、この
「ねえ、まりも」
というドラマを観ていて、
大変なだけだったその「記憶」は、
研磨され、精製されたかのように、
光り輝く「思い出」として蘇った。
思い返せば、
大変なこともそりゃあたくさんあったけど、
あいつらがいたからこそ感じたこと、
楽しかったこともたくさんあった。
なによりも、
十数年かけて命の一部始終と関わりきったという経験は、
非常に貴重なものだったのだ。
ドラマの終盤でも、
「こんなに悲しい思いをするのなら、もう犬なんて飼いたくない。」
という少女の言葉が、
子犬のおぼつかない想いと合わさって、
「でも、私はまた、犬を飼いたい。」
となった。
私も、
あんなに大変な思いをするなら、もう犬なんて飼いたくない…。
と思っていたが、
このドラマを観て思いました。
でも、私はまた、犬を飼いたい。
・・・5匹はカンベンだけどな。
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